傾きが負

〜known secrets and unknown common senses〜
第9話

 次の日、美夏は母に見送られ、松葉杖をつきながら家を出た。それはいつもより1時間早い出発だった。
 バスに乗るとき美夏は中年の女性に手を貸してもらった。そして、降りるときもサラリーマンの男性の手を借りた。駅の階段を上る時も人の手を借りた。美夏が電車に乗って、体を支えるために手すりに掴まっていると、斜め前に座っていた若い女性が立ち上がり、
「どうぞ、座って。」
 と言った。美夏は申し訳なさそうに座って、
「どうも、すみません。」
 と言った。美夏はうつむいて、その女性と目を合わせることができなかった。ちらりとその女性を見ると、窓の外を眺めるその目は、なんとなく輝いて見えた。
 その後、高校に着くまでに美夏は「すみません」と何十回となく言った。
 美夏が教室に入ったのは、遅刻ぎりぎりだった。友人の手を借りて自分の席に座った美夏は一限目の授業を受けた。自習していたとはいえ、前回までの授業の内容が分からず、相当な戸惑いを感じた。休み時間になると、友人達が美夏の机の周りに集まって、美夏の足のことを話題にして雑談を始めた。美夏は次の授業に備えて、これまでのノートを見せて欲しかったが、友人の雑談の受け答えに追われ、とうとう言うことができなかった。休み時間はそんなことに終始し、美夏は自分の知らないことを前提で進む授業に一種の疎外感を感じた。放課後になると、友人達はいつものようにカラオケに行こうと言い出した。今の美夏にはそんなことをするお金はなかった。仕方がなく、足のことを言い訳にして断った。すると、里子も美夏を送るからと言って、断った。
 友人達が去ると、美夏は里子と2人だけになった。
「ごめん、私のせいで…」
 と謝る美夏の言葉を遮って、里子は言った。
「いいの、友達でしょ。それに、私、カラオケってあまり好きじゃないの。」
 美夏がノートのことを話すと、里子は快く自分のノートを貸してくれた。そして、携帯の解約のことを話すと、一緒にお店まで行ってくれた。
「皆には私が言っておくから。携帯なくたって、生きていけるよ。」
 と里子は美夏を元気づけた。
 里子と駅で別れた美夏はまた人の手を借りながら、家に帰った。
 机に向かって、借りたノートを写していた美夏の頭の中を今日の出来事が駆け巡った。涙が頬を伝い、美夏は顔を伏せた。美夏にとっては携帯を失ったことよりも、多くの人に迷惑をかけてしまったということがつらかった。これからも迷惑をかけつづけると思うと、自分の存在自体が悪いようにも思われた。
 濡れた目で再度ノートに目をやると、それは数学のノートで座標に直線が描かれていた。美夏は入院中にあったあの男の言葉を思い出した。美夏はその言葉をメモしたノートを引っ張り出して、その言葉を眺めた。
第10話
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