傾きが負

〜known secrets and unknown common senses〜
第6話

 それから2、3日は見舞いに来る人もなく、美夏にとって平穏な日々が続いた。美夏はベッドの上で参考書とノートを広げ、一日中ペンを走らせた。
 ある日、同室のゲーム少年のもとに家族がやって来た。話に耳を傾けると、どうやら今日が手術の日らしかった。少年は母親に手を両手で堅く握られた後、祖父母に
「遊園地だよ。」
 と言って病室を去った。
 しかし、少年が病室に戻ってくることは二度となかった。
 美夏にとって隣人の死は父のとき以来だった。美夏は突然の事故で逝った大好きな父の亡骸を前に泣き崩れたことを思い出した。その時、もう二度とこんな思いはしたくないと思った。しかし、再び他人とはいえ人の死に直面したことは、美夏にとって苦痛であり恐怖だった。死別との遭遇はまるで、突然現われて隣人を連れ去る悪魔の襲撃のように思えた。美夏はこのことを早く忘れてしまおうと、参考書を開いた。
 しかし、脳裏をかすめる暗い思い出の断片を心の奥深くにしまいこむことはそう簡単ではなかった。
 翌日、美夏のもとに中学校時代の友人達がやって来た。母から事故のことを聞いたのだそうだ。美夏と彼女らは思い出話に花を咲かせていた。しばらくして、友人の一人がこんなことを言った。
「そういえば、この間、あの店の店長が自殺したらしいよ。」
「あの店って?」
 美夏が問い返した。
「駅前の本屋よ。借金苦だって。万引きが多かったもんね。」
「私達もよくしたよね。」
「そうそう、私なんか10冊も盗っちゃった。」
 万引きの話で盛り上がる友人達だったが、美夏はうつむいて口をつぐんでいた。
 突然、隣の変な男が口をはさんだ。
「君達のせいで人が死んだんだぞ。店長や残された家族の気持ちがわからないのか。それとも、人殺しが好きなのか?
 そもそも、人のものを盗むということがどういうことかわかっているのか。取られた人の身になって考えてみろ。盗られた人は金銭的な損害を受けるだけじゃなく、心も傷つくんだ。その傷は一生癒されないかもしれない。
 盗った人も相手の気持ちもわからず、反省もしなければ、また同じ過ちを繰り返し、人を傷つける。結局、捕まって牢屋に入るか、人の気持ちもわからない人間のクズになる。
 反省もせず、自分の悪事を自慢気に話す君達は自分が人間のクズだということを認めているに等しいぞ。」
 友人達は男の言葉がこたえたらしく、すごすごと帰っていった。美夏はうつむいたままだった。
「悪かった。言い過ぎたようだ。ごめん。」
 と男は美夏に謝った。
 しばらくの沈黙の後、美夏は涙を浮かべて告白した。
「私も一回だけ万引きしたんです。彼女らに勧められて…
 別に欲しい本でもなかった。やりたくはなかった。でも、仲間はずれにされると思って…
 まさか、こんなことになるなんて…
 私のせいで…」
 自分があの忌わしい悪魔の手助けをしたかと思うと、自分まで忌わしく思えてきた。
「その時、断りきれなかったことを君は十分反省しているんじゃないか。」
「反省はしているんですが、あんなことさえしなかったらと。」
 すると、男は言った。
「過去にすがってもいけないし、過去から逃げてもいけない。過去は事実であり、未来は希望である。
 過去の栄光も経験も過ちも悲しみも全て事実で、今の自分を作り上げてきたものだ。過去の栄光を自慢して現在の自分を見失ってはいけない。過去の過ちから目をそむけて反省を怠ってもいけない。
 しかし、過去がこれからの自分を作っていくものではない。それは今の自分が決めること。過去を直視して、過去の自分から変わりたかったら、変わればいい。気持ち一つで変われるんだから。そう、気の持ちようで未来は希望で満ち溢れるんだ。」
 それっきり、男は何も言わなかった。

第7話
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