傾きが負

〜known secrets and unknown common senses〜
第16話

 後藤の家を出た美夏は夕暮れの中、自宅までひたすら走った。そして、家の中に入るとすぐに床についた。
 次の日、美夏は何事もなかったように大学に行き、講義を集中して聴いた。しかし、これまでの違和感は消えてはいなかった。美夏は家に帰ると、家事に加え、普段はしない読書を始め、暇な時間を作ろうとはしなかった。次の日もその次の日も同じような生活が続いた。
 金曜日の夕方、帰宅途中の美夏は電車の中にいた。美夏の自宅の最寄駅から大学のある駅までは、急行で45分かかるが、下校時は乗車時には空いていて、自宅に近づくにつれ混んでくるのが通例だった。その日も美夏が乗って、3駅を過ぎると満席になっていた。美夏はいつも通り、車両中央部の長座席の右端に座っていた。
 5駅目に来たところで、右側のドアから松葉杖をついた少年が乗ってきた。その少年は車内をぐるっと見渡して空席がないとわかると、美夏のすぐ隣の手すりに寄りかかるようにしがみついた。それを見た美夏は少しためらったが、勇気を振り絞って立ち上がり、
「どうぞ、座って。」
 と少年に席を譲った。少年は申し訳なさそうに席についた。美夏は少年の顔を見ると恥ずかしい気がしたので、じっと窓の外を見つめていた。
 家に帰った美夏はベッドの上であお向けになり、うっすらと微笑を浮かべた。良いことをするとこんなに気持ちがいいものなのかと感じ入っていた。前に美夏に席を譲ってくれた女性もこんな気持ちになったのだろうかと言う思いが頭の中をよぎった。それと同時に4日前の後藤の家での出来事が鮮明に浮かびあがった。
 しばらく硬直した美夏は別のことを考えようとしたが、どうしてもそのことが脳裏を離れなかった。逃げられないとわかると、美夏は、なぜ後藤があのようになったかについて考えてみた。噂に聞く教え子の自殺が原因なのだろうかとも思ったが、確信の持てる答えは出なかった。答えは本人に聞かないとわからないとは知っていながらも、再度、後藤の家を訪ねる勇気はなかなか出なかった。
 次の日は休みだったが、美夏の頭からは後藤のことが離れなかった。いつものように夕食の準備をしようとした美夏は、後藤が不健全な食生活を送っていることを思い出した。すると、美夏はいつもより1人分多く夕食をつくって、それを弁当箱に詰めてそっと自分の部屋に持っていった。そして、家族との夕食の後、美夏は家族には何も告げず、その弁当を持って後藤の家に向かった。
 呼び鈴を鳴らすとやはり3回目でドアが開いた。後藤は相変わらず、無精ひげを蓄えていた。目つきは前より良くなっている気がした。
「やはり、また来たのか。」
 と言うと後藤は美夏を中に入れた。美夏が弁当を広げると後藤は何も言わずにそれをむさぼり食った。食べ終えた後藤は
「うまかった。」
 と一言発すると沈黙した。しなければいけない質問があった美夏だったが、その静寂を打ち破ることはできなかった。
第17話
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