傾きが負

〜known secrets and unknown common senses〜
第15話

「そうです。あの時は大変お世話になりました。」
 美夏は嬉しそうにそう言うと、後藤は美夏の足元を眺めながら、ゆっくりと言った。
「足は、直ったのか…」
「はい。」
 その後、後藤は美夏の顔をぼんやりと眺め、数分間の沈黙が続いた。美夏は思い切って、こう切り出した。
「お話ししたい大切なことががあるので中に入ってもいいですか。」
「ああ。」
 後藤の住まいは1Kだった。部屋は雑然としており、所々に衣服が脱ぎ捨てられていて、部屋の中央に置かれたテーブルにはカップラーメンやコンビニ弁当の空き容器が山積みになっていた。美夏はたまらず、テーブルの上のゴミを片付けるのを手伝った。台所にゴミを捨てに行った美夏はあることに気が付いた。流しはピカピカでその上の棚には数多くの調理器具は整然と並べられていた。
 美夏はこう尋ねた。
「ずっと、こういうものを食べているんですか。」
「最近はそうだな。」
 後藤はそう答えると、テーブルの前に腰を下ろした。続いて、美夏もその正面に座った。
「で、大切な話とは何だ?」
 実は、美夏自身、何を話すべきか、全く考えていなかった。まして、大切な話なんてすぐに思いつくはずもなかった。
 しばしの沈黙の後、美夏が口を開いた。美夏は後藤と別れた後のことを話し始めた。退院後、家族との食事のありがたさを実感したこと、見ず知らずの人達に優しくされたこと、友人達とのこと、後藤の言った『傾きが負』の意味がわかって立ち直れたこと、今の学科を選んだ経緯、現在の大学生活に何か違和感を覚えていることを包み隠さずに全部打ち明けた。もちろん、美夏がこんなに自分のことを他人に話したことはこれが初めてだった。後藤は美夏が話し終えるまで、一言も発さず、じっと耳を傾けていた。
「そうか…、君は優しい心を持ちつづけていたんだな。」
 後藤はそう言うと、じっと目を閉じそれっきり何も言わなかった。
「また、来ます。」
 美夏はそう言って、後藤の家を去った。
第16話
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