傾きが負

〜known secrets and unknown common senses〜
最終話

 美夏はすっと立ち上がりこう言った。
「私について来てもらえますか。いや、ついて来て下さい。」
 後藤は美夏の真剣な顔を一瞥すると、徐に立ち上がった。そして、美夏に導かれるまま電車に乗り、ある大学に着いた。そこは、美夏の通う大学だった。
 その日は、眩しい陽射しが肌をじりじりと焦がすような初夏の陽気だった。美夏は大学の中にある、あの森へと入っていった。後藤もそれに続いた。
 森の中に一歩足を踏み入れると、ひんやりとした心地よい風が二人の肌を撫でた。美夏は少し歩いたところで立ち止まり、そばにあった木の深い緑色をした葉を指でさすりながら言った。
「私、心に余裕がなくなったときにはここに来るんです。ここに来ると、また頑張れる、そんな気持ちになるんです。」
 美夏は奥へと歩を進めた。後藤もそれに続いた。森の中は小鳥のさえずりと美夏の落ち葉を踏みしめる音が小気味よく響いていた。
 美夏は直径1mもある大木の前で立ち止まった。そして、その幹の表面に手の平でそっと撫でた。そして、そばにいた後藤の手をひき、同じ事をさせた。ざらざらとした感触と共に、後藤の目にはその表面を這っているありの姿が映った。ありは餌を探している様子で、せわしなく這いまわっていた。後藤がふと視線を上方に投げると、木の葉の間から洩れる眩しい光に照らされて、一つのくもの巣がぶらぶらと風に揺られていた。また、二人の周りを小さな虫がせわしなく飛び回っていた。
「木は太陽に向かって真っ直ぐ伸びているんです。こんな大木でも細くてか弱い木でも。背の低い木は大きな木の陰で日がほとんど当たらないのにこんなにも生き生きとしています。そして、大きな虫も小さな虫も生きるために一生懸命なんです。生き物は皆、生きることに正直なんです。」
 美夏はそう言うと後藤の手を握った。後藤は空を見上げ、美夏の手を強く握りしめた。
二人の前をひらひらと蝶が舞っていった。それを追って、やわらかな風が二人を包んだ。
 一歩、奥へと進むと、そこには鮮やかな若草色の竹林が広がっていた。


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